さて、このお盆、NHKスペシャルは見るべきものが多くありました。731部隊、樺太の悲劇、インパール作戦というタブーや今まであまり光の当たらなかった部分にもしっかりフォーカスした労作であったと思います。
その中でオーラルヒストリー(当事者から直接話しを聞き歴史にまとめること)の重要性を改めて感じます。90歳を超えた当事者の方々からの回想。特に今まで話してこなかった悲劇を語り、遺そうとされる姿勢。淡々とした口調から、逆に決意と悲惨な状況が生々しく感じさせられます。
改めて感じますのは、過去の大戦の評価の難しさと単純化して論じることの危険性です。
自虐史観からの脱脚、過去の大戦はやむを得ないもので、日本の植民地支配は他の欧米列強とは違う、などという言説も昨今は少なくありません。
確かにその側面は否定はしません。しかし、それには先の大戦への痛切な反省があってこそだと思います。それのない過去の肯定は歴史修正主義に繋がり、遅れていた国を教導したのだという傲慢を招来します。
やむを得なかった、とする被害者の立場があれば、加害者の立場も当然あるのです。
ネット社会の中、どうしても自己に肯定的な言説を探し、共有する傾向があることはやむを得ないのかもしれません。
また新聞メディアもその風潮の中、カラーをはっきり出すようになりました。しかしそうすればするほど、そのクオリティ(質)に粗さも感じることがあります。
そんな中、やはり発言に影響力のある方々はそれをバランス良く意識しておくことが必要だと思うのですが、過激な発言でいわゆる"ポジション"を取っていこうとする方も少なくありません。
保守でも革新でも対立が先鋭化する(させる)ことが、結果としてビジネスになる人達がいます。本が売れ、テレビに出て、講演に呼ばれる...。
日中でも日韓でも、そのような人達はいますし、それはもちろん相手国にもいます。
私は保守中道の理念を掲げる宏池会の一員であり、そのことを誇りに思っておりますが、私達が最も考えなければならないのは、かくの如き感情を煽ることで存在感を出そうとする立場と明確に一線を画し、その壁を乗り越えていかなければならないということです。
その意味でも今回のNHKの3部の労作は非常に意味があったと思っています。戦争が決して一面的な被害者、加害者の単純な立場で分けられるものではない。
そして最も苦難の道を歩んだのは市井に暮らす国民の皆様お一人おひとりであったこと。
そのような戦争を惹起したことの結果責任は当時の国家の指導者にあることは当然であります。
東京裁判への批判は喧(かまびす)しくありますが、では仮に東京裁判がなければ、日本人は自らにおいて戦争責任を顧みることはできたのでしょうか。
当時の指導者が温存され、またいわゆる「松本試案」の経緯などみても、それが現実的に可能であったとは私は思えません。
もちろん戦勝国の一方的な裁定だとする東京裁判の批判は極めて容易ですし、憲法がGHQに押し付けられた的な議論は、わが党でもよく好んで議論されますが、それであればでは我々はどう自らを裁くべきであったのか、それができたのかを冷静に考えなければなりません。
このようなことを書きますと、一部保守系の方々に受けが悪いのは分かっています。中道を希求することは、誠にイバラの道だといつも思います。
しかしぜひお考え頂きたいのですが、今年もそうでしたが、天皇陛下は終戦記念日のお言葉では毎年、先の大戦への「深い反省」を述べられます。
天皇陛下のお気持ちを"忖度"するなど、畏れ多いことですので、申し上げることはありませんが、この事実は私達は重く受け止めなければならないものだと思います。
改めていま、1人でも多くの先の大戦を経験された方々のお声を伺っておく必要があると実感するとともに、決して戦争が善悪好邪の単純なものでないこと、そしていかに人間性を失われるものであるか、そしてわが国の不戦の歩みの尊さを改めて実感をする夏です。